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執筆者の写真Philip/K/Kom

<閲覧注意>芸術論談義⑦ ~生活の中の芸術~


毎月配信予定のこの芸術論談義ですが、3月末に寄稿する予定が体調不良で今日となってしまいました。

少し遅くなりましたが、3月分として本日も書いていきたいと思います。


<序章>


もう4月となり、「今期」がやってきました。

入学、進学、入社と4月は本当に色んなイベントが起きる月ですね。


僕の身近なイベントとしましては、前職の研究所時分の後輩がなんと研究所を退職するという事を聞きました。

その人は30代前半で非常に素直な人間で、人当たりもよくこれからベテランの道へ邁進していくことを願っていたのですが、この機に転職されるそうです。

なんとも人生というのは面白いものです。


現代では、大手企業と言っても未来永劫安泰というわけでもなく、若い方ほどより良い条件、自分の適性などを鑑みて転職を検討される事が多いように感じます。

僕の場合もそうでしたが、「そんな良い所に入れたのにもったいない・・・」と言われる事もありました。

ただ、「良い」か「悪い」かは本人とっての主観的な判断によるところで、本当にその企業に所属し続けることが自分のためになるかは他人には分からないところなんですよね。


特に日本の自動車業界は今や非常に苦戦を強いれらている環境です。

僕の所属していたHONDAでも4輪事業部は赤字経営が続いています。

それは単純に「若者の車離れ」だけでは済まされず、社会全体が車との関係性に変化が生じてきていて、その大きな流れに対応できるかどうかになってきているのではないかと感じます。


TOYOTAでは、すでに車というモビリティだけの視点にとらわれず社会インフラ全体として消費者にどう利便性を提供できるかという事に着目しています。

それがスマートシティだったりするわけですが、そういったアクションも”自動車会社”という枠に囚われず、様々な事に手を出していくことが次のニーズにつながっていくのかもしれません。



<身の回りの芸術とは


まあ枕はこんなところにしまして、第七回芸術論談義のテーマは

生活の中の芸術

という事でお話をさせて頂ければと思います。


みなさんは、普段生活している中で”芸術”を感じる瞬間ってありますか?

”芸術”と書くと、映画を観たり、音楽を聴いたり、美術館に行ったりと割と活動的なアクションに限定されそうですが、実はそうでもありません。


普段我々が生活している中で潜在的に非常に多くの芸術性に触れています。

しかし現代ではそれらが気づきにくくなってもいます。

それは、後述する現代人の心の余裕が無くなってきている事がひとつの原因と考えられます。


もちろん、映画、音楽、絵画鑑賞なども立派な芸術活動のひとつです。

しかし、今回はそういった分かりやすい芸術のアクション以外のお話をしていきます。


では、そういった事以外何か芸術なんて存在するのか?

答えは”いくらでもある”です。


芸術というのは、芸術論談義の第一回で書いたように、「感情や情緒を想起させるような活動」の事を指します。

まあ定義とかの難しい話は置いておいて、つまり自分の中に感情が変化するような事があればそれは立派な芸術活動のひとつと言えるわけです。

なんだか身も蓋も無いような話だと思うかもしれませんが、詳しく書いていきます。



それでは身の回りの芸術を観ていきましょう。


みなさんは、朝支度をして電車で通勤しますか?

現在ではリモートワークも非常に増えていますが、それでも電車通勤の方は多いと思います。

電車に乗って、窓から見える景色。いわゆる車窓というやつですね。


想像してみてください。

この季節ならあちこちの桜が咲き、学校の校庭では子供たちが桜の木の下で談笑をしています。

気づかないうちに古い家屋はマンションになっているかもしれません。

電車に乗る人たちは、冬のコートから春の明るい服装に変わっています。

朝の空気は少し寒さを感じるものの太陽が昇るにつれ心地良い空気に変わっていきます。

お昼に行った定食屋で注文した日替わり定食には、菜の花のお浸しが付いていました。

日が長くなり夕方でもまだ人々が歩いています。

街を歩く人の中には真っ新なスーツの新社会人、体よりも大きなランドセルを背負った小学生。



これらなんでも無い風景を観たときに自分はどう感じるか?

「今年も桜の季節がやってきたなぁ」

「庭の草木が伸びてきて緑が増えてきたなぁ」

「頼りない新人もこれから社会の荒波に揉まれて成長するんだろうなぁ」


こういった"感情”が想起されるのも、その人も持っている芸術感が成せる業だと思います。



<なぜその絵を良いと思うのか?>


人間の持つ芸術感がなぜ関係するかというと、例えば絵画を観たときに、「良い絵だな」と感じるという事の中に、その人の中にある思い出や楽しかった経験などの要素を刺激しているんです。


なので、観たことも行った事も無い風景画を観たときにでも”良い”と感じるのは、その絵の持つ「空気感」や「雰囲気」などの複雑な要素が観る人のポジティブな経験を引き出す”トリガー”=”引き金”になっている場合が多いという事です。


つまりは、芸術というのは観る人にも”引き出す事の出来る経験”を持っていないと良いも悪いも感情の変化が起きないと言えます。


いくら素晴らしい絵であっても、観る人が無感情、特にこれといった想い出を有していなければ感情を想起される材料が無いので何も感じることはないでしょう。


逆に言えば、そういった無粋に生きている人は、そいうった絵や作品に触れたいと思うこと自体発生しないとも言えます。

(そういった人が居ないとは信じたいですが、世の中には本当に芸術感の存在しない人も一定数いるのも事実です)



まあ芸術作品の良し悪しを難しく語れば、構図や配色などの構成も関係してきますが、そういった理論抜きにしても芸術を楽しめるかどうかは人によるところも大きいという事です。



<日本人の芸術感


芸術感という観点で話をすると、日本人というのは、四季に関して非常に敏感な民族です。

なぜかと言うと、日本人は古来より農耕民族のため、作物の管理が非常に天候と季節に左右されるためです。

作物の生育、収穫が自分や家族、もっと言うと村の存続にストレートに関係するため、こういった環境に敏感にならざるを得ないという事です。

そのため、日本語には非常に多彩な季節や天候を表す言葉が存在します。そのひとつひとつも似ているようで微妙にニュアンスが異なったりと、かなり多義に言葉が作られてきたのもこういった背景が影響しています。


そのDNAは現代日本人にもあり、欧米諸国と比較しても、四季折々のイベントがとても多く、いまだにそれらを大切に受け継いでいます。


しかし、残念なことに資本主義経済が入ってきた戦後日本では、合理化の大義名分の元、こういった情緒的な文化は衰退傾向にあります。

というのも、これら文化は今や「何のためにこれをやっているのか?」という本来の目的がうまく伝えてこれず、「別にやらなくても影響ないよね?」というった感じで、ひとつづつ消えていく運命にあります。

それは「墓仕舞い」だったり「時候の挨拶」などと徐々に目に見える形で変化してきています。


<現代人が失いつつあるもの


なぜ現代人がそういった風情が少なくなってきたかというと、現代の日本があまりにも”貧乏”になってしまった事が大きな要因のひとつです。

”貧乏”というのは経済的な話だけではありません。というより日本国というのは経済規模で見れば世界の中でも富裕国家のひとつです。


貧乏というのは、労働力のデフレが起き、一般庶民が風情を感じるだけの生活の余力、心の余裕が無くなってきているからです。

芸術というのはどの国に置いても、国が豊かで、国民もゆとりのある時代に盛んになります。

例えば、日本の江戸時代中期以降では、庶民の中にも浮世絵や歌舞伎などの楽しめる人は多くいましたし、お金は無いけど近所の風景を楽しむ。子供の成長を楽しむ。お宮参りを楽しむ。仕事を楽しむ。と言った具合で短い人生をどう楽しめるか?というのがひとつのテーマでもあったように思います。


今の日本では、そういった芸術性に目を向けるだけの余力が少なくなってきているのかもしれません。どうしたって仕事中心の人生になりがちで、ストレスフルな情勢では、中々心の余裕は持ちにくいのもうなずけます。



<現代人の救世主?


そこに現れたのが各種メディアです。

忙しい人達にも、より早く、より分かりやすく、より便利に。いつでも好きな時に美しいモノを観ることが出来る様になりました。

とても便利なツールですが、現代人はこれに依存傾向にあります。綺麗な風景や、感動の出来事など、それら画面で起きていることが自分の人生へと侵食し始めているんです。


自分がそこに行くよりも、よっぽど楽で安く、いつでも観ることが出来る。

それは一見素晴らしいように聞こえますが、人間はそれに慣れてしまうと、自分の現実に起きていることに無感情になってきてしまいます。

なぜなら、画面の奥では自分の人生より何倍も素晴らしい出来事が起きているし、自分の住んでいる場所より全くもって美しい景色がそこに広がっているからです。


だから人間は、「もっと美しさを!」「もっと素晴らしい物語を!」と自分の人生の外側に芸術性を求めてしまっているんです。

ここまでくると、麻薬のように「more and more」となり、自分の衰えた感受性をより刺激させてくれるような、もっと強い芸術性が必要となってしまいます。



<芸術感はどこへいったのか?>


僕が言いたいのは、身の回りのある”楽しみ”や”芸術”というのは今も昔もそこにあるんだという事です。

それは、街は近代化し、より生活は便利になったかもしれないけど、人間のもつ感受性というのはたかだか100年200年では変わりません。

問題は、そういった身の回りの風情に積極的になれるか?という心の持ちようなんだと思います。


だからこそ、僕たちはキャンプにいって自然の片鱗を味わったり、たまには自然の中に飛び込みたくなったり、帰り際の夕焼けに哀愁を感じたりするんですね。


大切なのは、そういった芸術感というのは、環境だけの代物ではないという事を理解する事です。芸術の定義は「相互に感情の変化に起因するもの」です。

いくら自然が綺麗でも、素晴らしい絵があっても、季節が変わろうとも、その中にいる人間が何も感じないのであれば全くもって芸術性はそこに介在しないんです。


そしてそれを、受動的に待っているのではなく、自分自身が楽しめる場所に飛び込んでいく。移り行く景色の変化に敏感になる。という事だけでも人生の色数は何倍にも増えていくと思います。



<芸術感を養うヒント


僕たちの人生というのは、非常に選択肢に溢れています。今日何を食べるのか?何を着ていくのか?誰と会うのか?

そんな日常の中で、ひとつひとつに何かしら理由があると思います。それはその時の一過性の感情だったり都合だったりする場合がほとんどだと思います。


まあそれはそれでも良いんです。ただ一か月に一回くらい、何か買う時や選ぶ時。漫然と今まで買っていた流れから選ぶのではなく、「なぜ自分はそれを選ぶのか?」という心の中の声を聴いてみてください。

特に身に着けるものを買う時はよーく考えてみてください。


今まで通りの無難な選択になっていませんか?

誰かが良いって言っていたのを鵜呑みにしていませんか?

本当にそれでなければいけない理由はありますか?


こういった、何かを選ぶ時に、自分なりの「拘り(こだわり」を持つことで、機能以外の美しさや自分に合うかという芸術的尺度を鍛えることが出来ます。

一度、ブランドやネットレビューなど完全に排除して、お店に通ったり、試着したりして本当に自分の欲するものかどうか熟慮してみるのも良いと思います。(もちろんお店に迷惑にならない範囲で)


一見、芸術とは関係なさそうな事ですが、このような物や事柄の価値の本質を見極めようとする行動は、より思慮深く物事を考え、身の回りのちょっとした変化にも気づけるような芸術感を鍛えることが出来ますのでおすすめです。


以前の回でも記載しましたが、芸術というのは大層なものという固定観念を壊し、作家が配慮したほんのわずかな形跡に気づけるかどうかで作品が楽しめるかどうかが変わってきます。



<まとめ>



ということで、回りくどくはなりましたが、今回のまとめに入りたいと思います。


Q:生活の中の芸術とは?

A:芸術性を感じる人間がいれば、ありとあらゆる環境は芸術と成り得る


上手く伝わるか分かりませんが、今の僕の表現力ではこの辺が限界だと思います。

難しいのは、この辺の事が「分からない人には全くもってピンと来ない」という事です。

これは、数学が苦手な人に「数学のどこが分からないの?」と聞くようなものです。


この記事を読んだ一人でも多くの人に、身の回りの芸術性、そして自分自身の芸術感に気づいてもらい、少しでも風情のあるよりよい人生を謳歌して頂ければ嬉しく思います。


体調不良も相成りまして、今回は短めですが、この辺で終わりたいと思います。


次回、芸術論談義⑧は「芸術感のある人と無い人の違いは何か?」で書きたいと思います。



ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。

また次回をお楽しみお待ちください。



Philip/K/Kom


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