<コラム>分からない事を受け入れる度胸 ~わかった気になる病気~
- Philip/K/Kom
- 2024年2月28日
- 読了時間: 10分
こんにちは、Philipです。
新年のご挨拶も出来ず、申し訳ありません。
あっという間に2月も終わりです。

もう花粉症の時期で、一日100回はくしゃみをしているし、目のかゆみもひどい状況が続いています。
いやー、しかし人間も弱くなったものです。
江戸時代にはもっと杉や草木が多かったはずなのに花粉症があったという文献はほとんどありません。
アレルギー反応というのは、体内に異分子が入ったことによる過剰反応なんですが、現代人は本当に何でも過剰反応しすぎなんでしょうね。
それは、別に花粉症に限らず、人間関係、仕事、政治、芸能、文化なんでもそうだと思います。
話は逸れましたが、いつもやっている「芸術論談義」ばかりだと飽きてしまうので(自分が)今回はコラムを書いていきます。
【「分かる」と「分からない」の違い】

先ほどの過剰反応の話ともつながるんですけど、今の人は「分かる」という事と「分からない」という事に関して非常にセンシティブな感情を持っているようです。
某芸能人のスキャンダルしかり、政治問題しかり、SNS上では何万という投稿や反応がされています。
なぜ反応するかと言えば、自分には「分からない」からです。
例えるなら、幽霊に会った時に絶叫するような”反射反応”なんだと思います。
なんでかというと、人というのは「分かる」事については反応はありません。
1+1=2です。と言われれば、ほとんどの人は何の反応も示しません。
しかし、1+1=3です。と言われると「いやそんなはずないだろ!」と言う人がほとんどでしょう。
スキャンダルの件に関しても、自分の人生で起きるはずの無い事が実際に起きている(と言われている)事に関して想像も出来ない。理解出来ない。それに対して所謂自分と世界との認識のズレが生じるわけです。
そのズレを少しでも是正するために「そんなことはダメだ!」とアピールして、他の世界と自己の世界との乖離を少なくするという防衛本能なんです。
こんな事がなんで起きるかと言うと、人間が石器時代くらいの原始人だったころは、人間一人の持っている力はたかが知れていました。だからこそプライド(集団組織)によって協力しながら毎日を生きてきました。
だけど、集団の持っている認識と自分の認識に誤差があると生き死に関わります。
だからこそ、人間は言語を持ち、字を書く様になったり、主観を可能な限り客観的にして認識や情報を共有するようになりました。
つまりは、世の中の”問題”と呼ばれている事は、今現在と時代性との認識のギャップから生じるとも言えるでしょう。
私はタバコを吸いますが、現代で駅のホームでタバコを吸っていたら、その瞬間に駅員か周りの人に注意されるでしょう。
しかし、私が小学生時分では、いたる所でタバコを吸う人が居て、そこら中に灰皿がありました。しかも電車の中でも吸えて、灰皿もあったくらいです。
それがたった30年程で全く反対になりました。タバコは然るべき場所のみ吸うもの。
これも時代性による当たり前が当たり前でなくなった良い例です。
「分かる」というのは、こういった事で、今まで何も問題無い事が、突然か徐々にかでもそれが”当たり前でなくなる”事で「分からなくなる」という風に変化していくんです。
何が言いたいかというと、「分かる」という事と「分からない」という事は対義語ではないという事です。
「分かる」という現象は、無意識なので普段は感じないんです。
それに対して「分からない」というのは、現象ではなく感覚になります。
【なぜ「分からない」のか?】

「あの人はなんで説明してもわからないんだろう?」なんて話はどこでもあると思います。
結論から言うと、人間が違うからです。
身も蓋も無いと感じるかもしれませんが、それ以外説明が出来ないという事実があります。
基本的に人間というのは主観しか感じられません。Aさんの人生はBさんが感じる事は出来ません。Aさんが一生懸命説明しても、それはあくまで概要であって、体験から生じる感情や感覚はBさんには決して分かりません。あくまでBさんの人生の中で近い体験を引っ張り出してすり合わせて想像する事しか出来ません。
だからAさんが「骨折して死ぬほど痛かった」と言ってもBさんが骨を折ったことが無ければ想像は出来ません。
この当たり前の事が実は結構見落とされがちです。
自分が「分かる」事が他人にも同様に「分かる」というのは実際にはイコールの事じゃないんです。あくまでも落ち所として”近似値”で話をしているんです。
ここで最も人間の業が深い事として”承認欲求”というのが現れます。
多かれ少なかれ人間というのは、自分の事を「分かる」(分かってもらえる)事に非常に快感を覚える生き物です。理由は石器時代の前述した通りです。
だから、一生懸命説明して相手に「分かる」状態にしたいという欲がどうしてもある。
これは、誰も逃れられません。レベル差こそあれど、人間には必ず存在します。
しかし、先ほど書いたように究極人間同士が完全に「分かる」事は不可能なのです。
つまり、「分からない」のが当たり前なんですね。
これを忘れてしまう人が非常に多くなっているように感じます。
別に人間同士で完全に記憶や情報、認識を同一化する必要はどこにもありませんし、それは今現在は不可能です。
もっと高度な次元の意識集合体になれば可能かもしれませんが、それは現世では無理でしょう。これはゼーレが目指していた「人類補完計画」にも当てはまります。
【「分からない」を受け入れられない人達】

ここまで「分かる」と「分からない」という違いについて書いてきましたが、反対に「分かる」というのはどういうことでしょう?
1+1=2が理解出来る事なのでしょうか?
しかし、数学上はそうであっても、二人の人が一緒に仕事をしたが場合、成果が2倍になる事も半減する可能性はあります。
この世界は物理的なルールに従って動いています。それを見える化していく取り組みが数学であり、物理学などの学問になります。
しかしそれららは”前提条件”というだけであって、素粒子レベルになると、原子の動きは全く予想が出来ません(カオス理論)。
物理的要素をとことんシンプルにしていくと、逆に予測や物理法則が通用しなくなるという面白い事象ですね。
つまりこれが「分かる」という事です。
もっと分かりやすく書くと、「分かる」という事は「分からない事」を「分かる」(受け入れる事)ということです。
このカオス理論が納得いかずに「おい原子!ちゃんと動け!」という物理学者はまず居ないでしょう。
それは、私達が決めたルールでも無く、”そういうもの”なんです。
しかし、現代の人は、とにかく何でもコントロールしたがる。
アメリカの反プラスティック運動、ヴィーガン運動、SNS炎上もしかり。
「分からない」が気持ち悪くて仕方ないんでしょう。
しかし、そういったものは近視眼的な見方で、自分の人生をものさしにしているから起きるんだと思います。
自分の人生があるように、他人にも人生があります。しかもそれは絶対に同一化は出来ない。そうなれば折り合いの着く妥協点で手打ちにするしかありません。
もっと言えば、自分の人生に関係ないモノには足を突っ込まない事です。
【「分かる」とどうなるか?】

ここまで書いて、「じゃあ分からない事は放っておけばいい」という投げやりなスタイルでいいのか?という事になってしまうかもしれないので書いておきます。
一言で言えば、”自分の人生に必要だけど分からない事は分かるように努力してみる”という事に尽きます。
例えば、動画編集をしたい人が居たとして、何の機材が必要なのか分からなかったら調べてみて購入するなり借りるなりするでしょう。
綺麗な動画が作りたければ、その関連の勉強も必要でしょう。
つまり、自分でコントロール出来る範囲については最大限努力をするなりなんなりして結果を出していく事が必要です。
しかし、自分ではコントロールできない事。例えば生まれや血液型、性別や性格などは、今更どうにもなりません。
それは、人間関係にも言えます。他人は自分ではありません。アウトオブコントロールなんです。変えようと思ってもまず変わりません。
じゃあどうするかと言ったら、お互いの落ち所を見つけて上手くやるしかありません。
映画「シックスデイズ」というシュワルツネッガー主演の映画では、クローン技術で自分と同一のDNAの人間を成人状態で作成出来ます。しかし、結局その会社の社長は自分のクローンに銃で撃たれてしまいます。結局双子でもDNAが同じクローンでも主観は共有出来ないので他人は他人なんです。それが生まれも育ちも違う人間同士が同じようになるわけがありません。「分からない」のが当たり前なんです。
では、「分かる」という状態になるとどうなるか?
それは、「行動」となって表出します。当たり前の様に毎日歩くという行動をしますが、赤ちゃん時代はまだ歩けません。「歩く」という行動が「分かる」から「行動」になります。
最たる例が”習慣”です。お酒を飲むのも「酔うと楽しい」を「分かっているから」飲むんです。
私は剣道をやっていますが、先生方から有難くもたくさんアドバイスを頂きます。
失礼承知で書きますが、口頭でのアドバイスは正直役に立った試しがありません。
これは、先生方の経験(主観)を説明されているのであって、私の経験(主観)に直結していないからです。なので、自分自身が稽古する中でピンとくるしか方法はありません。
もちろん、アドバイスがそのひらめきのヒントになる事はありますが。
なので、「分からない」を「分かる」にするためには、「行動」が必ず必要であり、「分かる」事が出来れば「行動」が出来るようになるんです。
なので、「分からないなー」と漠然と悩んでいるくらいなら、「分かる」ための「行動」をしてしまった方が早いです。もしくは必要無いなら「分からない」ままにしておけばいいです。
人間関係で言えば、奥さんが好きそうなものをたまに買ってプレゼントしてあげる。そういえばあいつ今日誕生日だったなと思いだして連絡してみる。なんて事も相手の事を少なからず部分的に「分かる」事による「行動」になります。
【分かった気になる病】

最後の章となります。
現代では、非常に情報化が進んでいて、手元のスマホでほとんどの事は調べる事が出来ます。最近では思い出せない事をスマホ片手に調べてしまえる便利な時代になりました。
認知科学の面は置いておいて、果たしてこれが正しい人間のコミュニケーションなのかは疑わしい点です。
確かにネット上にはありとあらゆる情報が存在します。それが正しいか間違っているかは分かりませんが。
しかし、それらは情報であり”経験”では無い事によく注意する必要があります。
例えば、「剣道とはどんなものか?」とネットで調べた時、星の数ほどのブログやページが検索されます。しかしそれは書いている人の感想もっと酷いと想像の場合もあります。
興味があってとっかかりとしては有用かもしれませんが、実際「剣道とはどんなものか?」の自分的正解(真実)を「分かる」ためには実際「行動」つまりやってみない事には分かりません。
しかし、現代人は偽合理主義が広がっているためか、”自分の経験”よりも”ネットの情報”を真実・事実として扱いがちです。
先ほどから書いている様に、人間は一人として同じ個体はいません。
映画でも音楽でも一人一人感じ方は違います。それをオーディナリーな情報を事実だと思ってしまう所に現代病の「分かった気になる病」というのがあります。
それは、決してネットが悪いということではありません。使い方が悪いだけです。
ネットに存在するものはあくまで”情報”に過ぎません。しかもそれは事実かどうかも分かりません。この” 情報”を”知識”と勘違いしてしまい、全能感を得てしまったのが現代人のおごりとも言えます。
人間の経験や知識は主観であり共有は不可能です。それを客観化して書物にしたり色んな手段で後世に残そうとみなさん頑張っています。
私達の感じる世界は固有であり、他人とは全く違います。
私の見ている青が他の人の青と同じかは分かりませんし、証明のしようもありません。
主観を「真実」だとすれば客観は「事実」なんです。
もし、人の人生を体験なんて出来る時代が来たら気が狂うでしょうね。
それがPink Floydの作った「The Dark Side Of The Moon」であり、邦題を「狂気」にした理由なのかもしれません。
自分の感じる世界は月の裏側の様に絶対に見えないんです。
だから自分の「分からない」も他人の「分からない」も受け入れる事が人生ではとても大切なんだと思います。
長くなりましたが、今回はコラムを書いてみました。
呼んでいただいた方が説教臭いと感じるか、面白いと思って頂けたかはわかりませんが、たまにはこういう記事も楽しく書けたと思います。
とにかく今は体調が悪いので、また体力があるときにでも記事を描けたらと思います。
ありがとうございました。
Philip/K/Kom
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